類書のない実務者の“バイブル”
朕帝國議會ノ恊贊ヲ經タル遺失物法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム―
このような明治天皇による前文を有する遺失物法……既に「旧遺失物法」といわなければならないが……に著者が初めて出会ったのは、最初の都道府県警察勤務を終え、警察庁の地域課に配属された新緑の候であった。前任の先輩が気さくな方で、「週末を使って勉強しておくといいよ。週明けからは君がこの法律の担当官だから」と貸してくれたのが、オレンジの装丁もまだ焼けていなかった福永英男「遺失物法注解」である。
確かに週明けからは、質疑・照会に圧倒された。
三分で回答案が見積もれるもの。過去の事例・判例をどう睨んでも途方に暮れるしかないもの。甲論乙駁で上司と深夜まで議論したもの。正解は明らかだがそれを採用することに抵抗を感じるもの……そもそも事案そのものがドラマティックなものも少なくない。
そうした遺失物法に関する事務は、著者の文書作成能力を鍛えるとともに、法律的な考え方・議論の仕方を根本から教えてくれた。この意味において、遺失物法は著者にとって忘れ難い、思い入れの深い法律である。
しかし著者は他部門に異動となり、爾後十年以上この法律から離れた。
思いもよらぬ病を得、奉職し続けることすら危ぶまれた時季もあった。
そして思い掛けず、まさにそのことが、先著「注解風営法」同様、この遺失物法コンメンタールを作成する機会と時間を産んだ。これは、著者にとってみれば皮肉以外の何物でもない。生命まで失いかけたそのことがなければ、遺失物法と再会することは……かくも深く再び関わることは……なかったに違いないからである。
さて、個人的な感慨は取り敢えず措き、本書の特色等について若干の説明を述べる。本書の特色の第一は、脚注の排除である。特色の第二は、原典資料の重視である。特色の第三は、具体的な設例検討の多数登載である。特色の最後に、遺失物法そのものはもとより、遺失物法施行令、遺失物法施行規則といった所要のテクストについても、文化財保護法、水難救護法、動物の愛護及び管理に関する法律等遺失物法と密接に関係する法律の関係条文とともに掲出したことを挙げておく。
なお、これは特色と表現するほどのことではないが、もとより平成十八年全部改正に完全対応している。
次に本書の目的であるが、これは「解釈・研究の基盤の提供」これのみである。本書が提供するのは、主観的には徹底的に収集した原典資料であり、具体性を重視した設例検討であり、必要となる条文であった。このような基盤を一冊の書籍に集約し提供することにより、遺失物取扱いの事務、遺失物法の研究等は合理化・効率化され得ると著者は信ずる。
しかし、かつての一担当官として、僭越を恐れず、また法制的な知見の乏しきを顧みず申し上げれば、「解釈」は資料の内にはないであろう。出発点となる十分な資料は不可欠だが、最終的には人間が「今、ここ」で法令と真摯に対峙する営み、そしてその結果を背負ってゆく営み……すぐれて実存的な営み、それが「解釈」ではなかろうか。
本書は吟味した素材、あるいは精密な地図を提供するが、それをどうお使いになるかは、これをお読みになる各位に挙げてお委ねした。繰り返しのようになるが、本書は必ず批判的に用いていただきたい。
また、本書の構成であるが、その巻頭においては、遺失物法に触れたことがない方、遺失物法の基礎を確認しておきたい方等のために、遺失物法における基本的概念及び基本的手続を、図表等を用いて平易に説明した。これを複数回読めば、遺失物法に係る実務経験がない方等であっても経験者並みの知識が修得できるようにしたつもりである。
さらに、巻末においては、我が国遺失物法制の変遷をまとめたものを収録した。これは純粋な研究結果あるいは単なる読み物であるから、御興味のある方が読まれればよい類のものである。
本書を献じるべき方々については、先著に触れたとおりであり、その御恩義等にいささかの変わりもないので繰り返さない。しかしながら新たに、警察庁の藤本隆史地域課長からは、著者の身に余る推薦のことばをたまわり、感謝の言葉もない。浅学非才の身としては汗顔の至りであるが、これまでの試行錯誤が報われた思いで一杯である。さらに、同課の児嶋洋平理事官からは、重要かつ有益なアドヴァイスを多数頂戴した。そのお人柄とお気遣いにどれだけ救われたかは表現のしようもない。この場を借りて篤く御礼申し上げる。
最後に、先述の経緯からいうまでもないことではあるが、本書において「考え」「解し」「み」ている主体は著者であり、したがって本書における記載は著者の個人的見解によるものであり、警察庁、内閣法制局等の公的見解によるものではない。文責はすべて著者個人にある旨念のため申し添える。
平成二十二年十月十日
蔭 山 信