3月11日は社会部の夕刊担当デスクだった。朝日新聞朝刊に掲載されていた「菅直人首相に外国人違法献金」の後追い記事を出稿し、「これで退陣は間違いないな」と軽口をたたいた。
 午後の東京都議会で石原慎太郎知事が出馬表明したことで、号外を発行する。「今日は朝からニュースてんこ盛り。どれも一面トップ級だよ。どれにするかは編集長の好みだな」と泊まりデスクと引継ぎを終え、自席に戻ったとき、突如大きく揺れた。かつてない揺れで、立ち上がることもできない。
 震源地は三陸沖。テレビでは仙台のスタジオが映し出された。「写真部と一緒の車で仙台に行け」と数人の記者を送り出す。各デスクがテレビを見ながら、手分けし、電話で部員の安否を確認しつつ、「今どこにいる。本社に上がって来い」、「気象庁に入ってくれ」、「どこでもいいから近くの地下鉄の駅の雑感をくれ」、「電車が止まっているから東京駅の雑感を送ってくれ」と矢継ぎ早に指示を出す。
 紙だけの時代と違い、現在はインターネット速報も新聞社の重要な役目でもある。
 急遽、数人の記者が「速報班」となり、「JR東日本全線ストップ」、「九段会館でけが人多数のもよう」、「三陸沖の太平洋側で津波のおそれ」と次々とネットにアップする。
 それから怒濤の紙面作りが始まった。締切りは通常より大幅に早い午後6時に設定された。仙台工場が停電のため、東北で配る新聞を首都圏で印刷するための特別措置だった。編集局長を囲み、面立てが話し合われ、どうしても必要な紙面以外、全紙面が地震面に決まった。
 「違法献金」も「石原都知事出馬」も大きなニュースにかき消された。その後、新しい情報を入れ、日付が変わる時間まで、紙面を作り続けた。
 全ての作業が終わり、「本当に朝から大変な一日だったな」と、朝から「違法献金」の追っかけ記事を書いてくれた記者に声を掛けた。ここまでは、経験がある地震が起きた日の一日だった。
 翌朝から海岸線の情報が次々に入る。誰もが経験したことがない惨事。初日よりも大変な日々が続くと分かったのは、かなりの時間がたってからだった。
 2004年12月26日のインド洋大津波の際、翌日の夜にスリランカに取材に入った。スリランカでは地震の被害がほとんどなく、海岸線約5キロ幅の津波被災地だけが黒い縁取りのように島を半周し、犠牲者は4万人に上った。
 遺体は重機で次々に埋められ、津波で死んだという話は聞くが、一人として遺体と対面した人に出会わなかった。誰もTSUNAMIの知識がなく、津波が押し寄せる直前、大きく潮が引くと、珍しい光景に海に出たり、貝を拾ったりし、行方不明になった人も多かった。「日本なら、日本人なら、こんなに被害が大きくはならない」。胸を張るような気分になった。
 実際、地元メディアから、何度も大きな被害を出している津波先進国の日本での対策について尋ねられ、江戸時代の紀州で津波から村人を救った「稲むらの火」の話を誇らしげに披露した。
 しかし、東日本大震災では、人は、経験していないことは想像できないことを思い知らされる。避難のために校庭に集められた小学生、早く自宅に送り届けようとした幼稚園の送迎バス。誰が責められるだろうか。
 今回の大震災では、被災地はもちろん、全国から警察官が駆け付け、救助活動に当たった。被災地以外でも計画停電の影響で交通整理や治安維持に当たった。
 テレビや新聞では連日、現地での活動を報道し、視聴者や読者の反響が大きい。国難に際し、決断力も実行力もない無能な政府とは対照的に、黙って確実に任務をやり遂げる警察や自衛隊に対する信頼感が際立ってみえる。
 日本中が感謝であふれていると言っても過言ではない。様々な意見が寄せられた。
 『君たちは、自衛隊在職中決して国民から感謝されたり歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。ご苦労なことだと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎され、ちやほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡のときとか、災害派遣のときとか、国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。言葉をかえれば、君たちが日陰者であるときの方が、国民や日本は幸せなのだ。耐えてもらいたい』(昭和32年、防衛大学校第1回卒業式 吉田茂首相訓辞)
 「この訓辞を知ったときには涙がこぼれそうになりました。国民として感謝の気持ちで一杯になりました。私たちが平和でいることができるのはその陰で支えてくれている自衛隊や警察があるからということを改めて知りました。本当にありがたいと思いました」。男子高校生の言葉である。
 現地での活動も詳細に報道されている。被災した石巻署の警察官が倒壊家屋から80歳の女性と16歳の孫の高校1年生を救出し、若い巡査が「警察官になってよかった」と話していた。救出した警察官は翌日、記者会見に応じたが、わずか15分ですぐに現場に戻った。この15分という事実だけでも、読者に感動を与える。
救助や救出ならば、どんな厳しい任務も励みになるが、収容できない遺体をそのままにしておかなければならないのはつらい。お婆さんの遺体、おんぶひもをかけているが子どもの姿がない母の遺体、小さな手と足の遺体。田舎の母や妻、我が子を思い起こしたに違いない。
 検視で福島県南相馬市に派遣されたチームは、泥だらけの遺体を丁寧に洗った。「少しでもきれいにして家族に返したかった。みんなが、遺体を自分の家族と置き換えていた」と話した。粛々と作業を進める体育館。休憩時間でも、誰も話す者はなかったという。
 報道する立場の者でさえ、一日中興奮状態が収まらず、夜も寝付けない日が続いた。現場の警察官の心労は、いかばかりだろうか。
活字メディアに生きる者にとって、映像の威力をまざまざと見せつけられた大震災でもあった。
 インド洋大津波で被災したインドネシアやスリランカ、タイではビデオカメラが普及しておらず、震源地に近いアチェやプーケット島などのわずかな映像以外、記憶にない。
 だが、今回は違った。一般の人が津波から逃げながらも構えたビデオカメラには、建物をいともたやすく破壊しながら押し寄せる津波や、「来たよ」との声に逃げまどう人々、自然の脅威に無言で立ち竦む人々……。こんな光景が日本で、生きている間に見ることになるとはと、息を呑んだ。
「大きな津波が来ます。高台に避難してください」
「津波が来ますよ、急いで避難してください」
 映像から聞こえる拡声器の落ち着いた声が、耳に残っている。住民を避難誘導している警察官の声だ。最後の最後まで住民に避難を呼びかけている。
 高台に避難した住民が撮影した映像では、かなり低い所で住民を誘導しているようだった。あの警察官は、無事でいるだろうか。
 一台も車がいない港の堤防沿いの道路を走っているパトカーの映像もあった。アナウンスしながら、住民が残っていないか確認しているようだった。あのパトカーは、津波から逃げ延びただろうか。
 2年前の夏、佐賀県唐津市肥前町の「増田神社」に取材に行った。唐津駅からレンタカーを借り、山道を抜けると、目の前は狭い海を挟んで長崎県だ。山にへばりついているような高串地区は、小さな漁港と美人の湯として知られる化粧水のような温泉以外は、何もないような村だった。
 釣りに行く中学生の男の子に、「増田神社はどこですか」と尋ねると、「増田様はもう少し先の二股を右です」と教えてくれた。「増田様」と呼ばれていることを知った。
 明治28(1895)年7月、新米の増田敬太郎巡査は、コレラが大流行していたこの高串に赴任する。当時、防疫も警察官の任務だった。
 現場を一目見た増田巡査は、感染拡大の最大の理由は隔離の不徹底にあると判断した。すぐさま感染者とそれ以外の者を分け、交通を遮断する。感染を恐れ、皆が手を出そうとしない遺体を背負い、一人黙々と埋葬した。そして、わずか赴任3日目に発病する。
「村人を世話しようとして来た私がかえってお世話になるようになって申し訳ありません。高串のコレラは私が背負っていきますから、ご安心ください」
 そう言い残し、4日目に帰らぬ人となる。25歳だった。
 遺言のとおり、コレラの流行は収まった。以来、高串では伝染病の流行がなく、地元民は感謝の気持ちで、増田巡査を神様と崇めるようになった。巡査を火葬した小松島は神聖な島とされ、船でそばを通る漁師は、島に一礼してから沖合に向かう。
 毎年7月に夏祭りが行われ、白馬にまたがった増田巡査の山車も繰り出される。最期まで住民の命を守る警察官の使命を全うした増田巡査は、「警神」と呼ばれている。
 今回の震災でも多くの警察官が殉職し、「警神」となった。
 宮城県警気仙沼署大谷駐在所の千田浩二巡査部長は海岸に人がいるのを発見、避難誘導のためパトカーで海岸に向かった。そのとき、津波がパトカーを襲い、海に流された。同僚がその光景を目撃したという。あまりにやりきれない。
 がれきからヘルメットが発見された。奥さんと4歳の女の子、3歳の男の子を残し、殉職した千田巡査部長は30歳だった。同僚に、窓越しに「海岸に行く」とジェスチャーで伝えたのが最期の姿である。
――公休日だったが、住民の避難誘導に向かい、行方不明に(岩手県警大船渡署)
――捜査車両で住民の避難誘導に向かい、行方不明に(宮城県警岩沼署)
――住民の避難誘導に向かい、行方不明に(福島県警南相馬署)
殉職した警察官は、自分一人であれば、難なく避難することができただろう。
 警察官の多くは避難する住民の列の最後尾で任務を全うしている。その多くが若く、地震直後、真っ先に現場に行き住民を誘導した。
 殉職した警察官の遺族に何ができるだろうか。神社とはいわないが、できる限り、最期となった任務や普段の仕事ぶりを、住民や同僚の方の証言を交え、記録として遺族に残してもらいたい。
「お父さんはみんなを助けようとして、お巡りさんの制服を着て、最期まで『津波が来た。みんな逃げて』と叫んでいたんだよ。天国でもみんなを助けているんだよ」。
 残された奥さんが、幼い子どもにそういい聞かせることができるように。警察官だった父親の自慢ができるように。成長した子どもがいつか、「お父さんのように警察官になる」と言ってくれるように。
 いつまでも、残された子どものヒーローであり続けてほしい。
 感謝の思いでいっぱいの、一国民の願いである。 (しょうぐち やすひろ)